よくある会社のよくある話

時間を見つけては折々更新・・

グループガバナンスの実現(子会社編)

 親子会社を含めたグループ企業において、グループガバナンス(グループ統治)という言葉を一体どれだけの人が理解しているのだろうか。そしてどれだけの人が、それを実現するための方策を巡らせているだろうか。グループ企業を代表する親会社の、一部の管理部門がよろしく考えれば良い、そんな風に思われていないだろうか。仮にそのような現状があったとしても、ただちに当事者が否定されるべきではないが、ガバナンスに「統治者」と「被統治者」の立場があるとすれば、各々にその役割が認知されていなければガバナンスは成立し得ないことは認識しておく必要がある。尚、ここでいう「統治者」「被統治者」は「親会社」「子会社」に対応する便宜的な表現であり、字義に含意されるような隷属的関係を指すものではない。

 グループガバナンスのあり方を考える前に、ガバナンスに関する3つのワードについて、主体と客体を以下の通り再定義する。 

(定義)

コーポレートガバナンス・・・主体:株主 客体:企業

(親子会社間においては主体:親会社 客体:子会社)

②グループガバナンス・・・主体:親会社 客体:子会社

③内部統制・・・主体:単体企業 客体:組織(企業内)

尚②グループガバナンスは資本関係上、①コーポレートガバナンスに含まれることになる。

 

また、グループ企業の構図は簡単に、以下の図式で述べるものとする。

(略図)

【親会社の株主→親会社(子会社の株主)→子会社(→組織)】※

※親会社内の組織への言及は本旨ではないため割愛している

 

 以上の簡便なマップを置いた上でグループガバナンスについて、順を追って紐解いていくこととする。

 グループガバナンスのあり方とは、言い換えれば「親会社はどのように子会社を統制するか」に尽きるが、原則としては株主化した親会社(買収会社)が子会社(被買収会社)の取締役を選任し、当該取締役による主導によって子会社を統制することになる。 グループ企業の成立過程がM&Aによる事業拡大を発端とした場合、既に「親会社」「子会社」の線引は完成している。その認識は企業の構成員たる従業員単位までおよそ浸透していると考えて良いだろう。両社は企業風土が異なるのであって、その隔たりが「統治者」「被統治者」の役割をいっそう浮き彫りにしているとも言える。他方、分社化を経てグループ企業を構成した場合は不明瞭である。企業風土は元を一にするのであるから反発の懸案は少ないにしても、「なぜ分社化したか」という経営戦略の主旨が従業員に明確に理解されていないことがあれば、「親子間の曖昧な線引」により当然に「統治者」「被統治者」の役割が認知される由もないのである。その結果、「面倒事は子会社」「それ以外は親会社」などという、およそグループの体をなさない役割意識が独り歩きすることも想像に難くないだろう。

 そもそもグループ会社における子会社は、その存在をもってグループの事業ポートフォリオを構成するのであって、これは持株会社制を敷く場合に顕著となる。端的には

親会社=企業戦略

子会社=事業戦略

がそれぞれ「統治者」「被統治者」の主たる役割分掌であり、親会社が掲げた経営戦略に沿って、子会社は事業戦略を打ち立てる。当該戦略を親会社は吟味し、これを踏まえて次なる経営戦略を立てる。相互の戦略を補完する親子会社が車の両輪となりグループ企業として発展する、そんなビジョンが描ければグループガバナンスとして不足はないが、上述のように親子会社間の線引が曖昧であると、戦略の分掌さえも覚束なくなり得る。

 このようなグループガバナンスの欠落を回避するには、子会社の内部統制が有効と考えられる。当該子会社の「被統治者」としての役割の周知、それは子会社の取締役会の決議、ひいては社内規程の整備等により組織内でルール付けがなされなければならない。各子会社の中でこれらが充足される土壌があれば、たとえグループがどれだけ肥大になろうとも、また組織がどれだけ細分化しようとも、それにあわせて統制網は拡張され、役割の喪失というグループ内の迷走は避けられる。このような「縁の下の力持ち」となる子会社によって、グループガバナンスは維持されるものと考えられる。なお「内部統制」のように、子会社内を整備する主体は子会社自身であることは留意せねばならない。子会社はあくまで親会社の求める成果に応えるため最善を尽くすのみであって、親会社がその過程や環境作りにまで直接指示を下すとすれば、それは子会社を一企業と認めない、法的根拠のない過干渉と言える。但しこうした子会社の活動について、親会社が支援することを阻むものではない。

 つまるところ、グループガバナンスの実現には子会社の内部統制が不可欠なのであって、 子会社が行うべきは事業戦略の策定に加え、もっぱら内部統制の充実である。それが喫緊の課題であることを親会社から赴任する子会社取締役が認識し、担当者への速やかな下知、そして組織及び規程の整備を管掌することが個別最適の実現、延いてはグループ最適化の実現に資することになる。

 尚、ここまで子会社子会社と連呼しているが、「子会社は何をすべきか」に焦点を当てた論旨につき「親会社は何をすべきか」を捨象している点、末筆ながら申し添える。

識者と経験者

 経営者が有するべき知識は、どのようにして仕入れられるべきか。外来識者を経営者に立てるケースを目の当たりにするとき、その疑問はついてまわる。下積みサラリーマンの行き着く先が執行役員、取締役、そして…と考えると、その者たちこそが正しく知識を得ていれば、外来識者に頼ることもないだろう。そして何より、自社のことを誰より良く知っているのは会社を下支えしてきた彼らに他ならず、彼らには外来識者の有していない経験というアドバンテージがある。

 知識と経験の融合が自社にフィットする施策を生み出すとすれば、これを実現するには識者が経験を得るか、経験者が知識を得る必要がある。経験は実地に携わる者が得、知識は学ぶ者が得る。そしてこれらは二者択一ではなく、経験者が学ぶことは可能だが、識者が経験を得るには実地に赴くしかない。歳を重ねて後、実現が容易いのは前者と言え、知識と経験の融合を実現する効率的な手段は「経験者が知識を得る」ことにある。

 会社を経営するのであれば、識者と経験者が協力する、具体的には取締役に識者と経験者を混交させるという構図も考えられるが、常に理想的に機能するとは考えにくい。経験者は識者の形式知に畏怖し、或いは机上の空論と批判する。識者は経験者の暗黙知に畏怖し、或いは悪しき慣習と批判する。どちらも起こりうる事態だが、旧態依然の社風である会社においては前者の方が発生率は高いだろう。なぜなら、経験者は誰かの指示を受け、それを実現することに努めてきた者が多いのであって、新たな施策を講じるための経験の豊富さを語るものではない。加えて専ら経営施策を講じるには、施策の裏付けを担保する経営知識が必要になるのであって、それを持ち合わせていない者は暴走して会社を傾かせるか、識者に従うしかないのだ。私が冒頭で投げかけている疑問はまさにこのことであって、経験者がかけがえのない「経験」を宝の持ち腐れにしないために、将来の正しい経営者になるための「学び」のキャリアプランをどのように描くか。それは個人の裁量なのか、会社が提供するのか。前者であれば会社による十分な啓蒙が必要であるし、後者であればやはり会社が相応の場を設ける必要がある。少なくとも、数日間の研修などで誰もが理想的な経営者になれるとは思われず、絶え間ない情報収集による知識の蓄積が不可欠だろう。性悪説の見地を取れば、事なかれ主義者であっても年次を経て経営者になり得るとも考えられ、これを未然に防ぐためには主要な社員にMBAの取得を促すなど、差別化を図る必要があるだろう。

 経験者の識者としての見識を養うに至れば、外来識者に依存する必要もないのであって、逆に言えば知識のない経験者が経営を語るとすれば、会社の未来は見えない。外来識者に頼るのは、経験も知識も兼備した「経験識者」の不在を補う窮余の策と言える。

前置き

 このブログは誰が為に書くわけではないが、誰かに宛てて書いている。誰かに読んでもらいたいわけでもないが、誰かに読まれることを想定している。素性は語らず名も言わず、言わば公園で衆目に晒された名もない雑草のようなもの、と捉えていただければおよそ相違ない。

 最近は筆不精でもありながら、記名で仮に筆を取るところまでいっても「これは公に書いて良いのだろうか」と思い留まることが多い。それは個人情報でもインサイダー情報でもないが、私の立場として「思うところ」の発信自体が意味をなし、私を取り巻く既存の利害関係者に望まれない不測の影響を与えることが危惧される。

 この問題は「1.私として」「2.所感を」「3.発信する」限りついてまわるのだから、単純に何れかの要件を満たさなければ良い。このうち1.を排除した結論の1つがこのブログになる。

 以上の背景と経緯をもって、拙文ながら前置きとしたい。